6月のお知らせ

6/1は、ご来場下さった皆様ありがとうございました。

今回はコバケン先生がヨーロッパのお仕事で帰国後すぐの本番でした。そのためリハーサルは少なめで当日はドキドキでしたがそこはチームコバケン。ご来場下さった方から高評価のコメントをいただきホッとしています。ご都合合えば皆様また来てくださいね。

今月の作曲家ハイドンの後半

エステルハージ家の楽長になったハイドンの仕事には、以下のようなものがありました。

楽団の指揮と練習、楽器のメンテナンス、楽団員のサポート、楽譜の管理と同時に侯爵から要望があれば、すぐに演奏できるよう待機するというのが主な仕事です。エステルハージ家のオペラ劇場(1768年)ができてからはオペラの仕事も増えていきました。作曲は、その合間にしていたことになります。

ハイドンは1761年から長い間、エステルハージ家の中だけで過ごしました。ちなみにエステルハージ家はハイドンの住んでいたアイゼンシュタットから少し離れたところにあって冬の間の3ヶ月くらい単身赴任状態でした。1778年頃にエステルハージ家に住まいが与えられて妻も呼び寄せたのですが1784年には妻だけウィーンへ移住してしまいます。エステルハージ家の閉鎖された環境は厳しかったのでしょうか。

ハイドンの交響曲や室内楽曲はエステルハージ家の催し物に訪れた侯爵たちなどによって1780年頃にはロンドンやパリへと広まり、それは大人気でスペインの侯爵からも作曲の契約を依頼されました。そして1790年58歳のハイドンはロンドンへ行くことになります。ロンドンでは定期的な音楽祭で自作の作品を指揮します。新しい刺激を受けたハイドンが作曲をすれば高評価で収入も鰻登りです。それは喜びに満ちて豊かな時間だったのではないでしょうか。

ロンドンの侯爵に引き留められつつエステルハージ家に戻っていくハイドンは閉鎖された環境ではあるけれど侯爵から信頼され自由に作曲ができ、作品を楽団で試し、お客様の反応をすぐに知ることができる場所だと語っています。若いハイドンを支えてくれたエステルハージ家に対しての感謝を忘れないハイドンは人として好感が持てます。

貴族達のために作曲された多くの作品は華やかで、きちんとした印象ですがチラッと聴こえる悲しい響きがハイドンの魅力かも知れません。

おしまい。

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